束縛と依存。
凄く反感を買いそうなことを書くので叩かれることを覚悟してぼくの意見を書こうと思う。
若干の年齢制限がかかるような事も書いていると思うので未成年の方は引き返して頂きたい。
以前、今やみんなやっているであろうTwitterの中でこんなような呟きを見かけた。
彼氏の浮気を防ぐ為には週の半分以上を共に過ごし、
セックスをして居れば性欲を溜まらせることは無く浮気はしなくなる。
というものだった。
果たしてそれは本当に彼氏の心を繋ぎ止めていることになるのだろうか。
ぼくの個人的な意見だけれどそんなことをしたから彼氏の心を繋ぎ止められるというのなら、彼女に向けている心も結局性欲なのではないだろうか。
勿論ぼくは心は繋ぎとめられるわけないだろうと思った。
例えそれで繋ぎ止められたとして嬉しいだろうか。
例えばそれは彼氏は家に居るから浮気しない、大丈夫と言っていることと一緒に思える。
本当にそうだろうか。
束縛していれば離れて行かないものだろうか。
逆に言い換えてしまえば束縛しなければその人の心が繋ぎ止めておけないその状況は自分に対しても相手に対しても果たして幸せだろうか。
今日のもう一つのテーマ、依存についても考えたい。
依存と束縛はイコールだろうか。
ぼくはそうは思っていない。
貼ってある画像は二つのテーマに対して調べた結果だ。
束縛とは自由を奪うこと。
依存とはザックリ言って(ここでは相手を人とする)
居ないと身体的、精神的な平常を保てなくなる状態。
ぼくが考える依存は相手が居ないと自分が成立しないような状態。
要するに調べた通りだ。
だからぼくの解釈は間違っていないと信じたい。
何故今日このテーマを選んだかというと
束縛と依存は近いようで全く違うものだ。と、ぼくは考えているからだ。
ぼくの考えでは人の心は縛るものではない。
もし心をつなぎ止めておきたいのならまだ共依存の方が成立するのではないだろうか。
勿論依存することがいいとばかりも言えないので勧めている訳では無い。
けれど実際問題、
性欲や閉じ込めておけば浮気しないという問題では無いんじゃないだろうか。
依存と好きでは振り分けは難しいだろうけれど、
どちらにしてもお互いだけがいいと思う心はそう変わらないだろう。
もしその心があったなら縛る必要なんて無いのではないだろうか。
そんなことをしなくても相手には自分しか居ないし
自分には相手しか居ないわけで、
浮気しようなんて心は芽生えない。
閉じ込めなくたって相手には自分しか見えていない。
自分には相手しか見えないという事だ。
その状況でなにを縛る必要があるだろうか。
家とはなんだろう。
自分がそこへ帰りたくなるから家なのではないだろうか。
帰りたくもない、居たくもない所へ閉じ込められている状態のその場所は果たして家だろうか。
今一度、束縛と依存について、家について、よく考えたい。
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